MHJ Online

2018年12月7日 / 時計ジャーナリスト 篠田 哲生
不思議な協力体制にある
フランスとスイスの時計産業(第1回)

ミッシェルエルブラン MHJ フランス
ミッシェル・エルブランという時計について考えた時、私は壮大な歴史的ロマンを想像せずにはいられない。というのも、ヨーロッパにおける時計産業の歴史には、フランスの社会的大変革が大きく関係しており、フレンチブランド「ミッシェル・エルブラン」も無関係ではいられないからだ。

16~17世紀のフランスでは、ユグノーと呼ばれるプロテスタント教徒が重要な地位を築いていた。少数派ではあったのだが、手工業や商人、金融業など、経済活動の中心を担っていたのだ。ユグノーの中には、時計師も多かった。当時の機械式時計は贅沢品であり最先端の工業製品でもあった。そのため国力がある国ほど、時計産業が発展し、フランスは長らく時計大国として名を馳せていたのである。

しかし1685年に歴史の転換期を迎える。ユグノーに宗教的自由を与えていた「ナントの勅令」が廃止されたのだ。結果、ユグノーたちは弾圧を受けることになり、近隣諸国へと亡命せざるを得なくなる。約20万人が国外へ逃れたとされ、うちスイスには約6万人が亡命したという。スイス西部はフランス語圏なので、心理的ハードルが低かったからだろう。しかもそこには多くの時計師が含まれており、時計大国フランスの最新技術を取り入れたスイスの時計産業の技術レベルは、著しく向上していくことになる。
いうなればフランスというのは、スイス時計産業の“母親”のような存在なのだ。

さて、スイスにハイレベルな時計技術を持ち込んだユグノーたちだったが、誰もがスイスまでたどりついたわけではなかった。フランスとスイスの国境エリアには、標高1000m前後のジュラ山脈がある。その周辺に居を構えたユグノーも少なくなかった。というのもこのエリア(現在のフラッシュ=コンテ地域圏)は、幾度となく続いた戦争を通じて様々な勢力に占領されてきた結果、住人は国境線を県境程度にしか考えておらず、ジュラという地域に暮らしているという意識の方が強かった。そのため苦労して山を越える必要はなかったのだろう。しかも特殊な歴史的背景もあって高度な自治権を与えられており、ユグノーにとっては暮らしやすいエリアだったに違いない。

ユグノーが入植したフランス側のジュラ地域も、スイス同様、時計産業が発展することになる。その中心地は学術都市のブザンソンで、今でもフランス時計産業の中心地である。ここにはフランス唯一の公式クロノメーター機関であるブザンソン天文台があり、スイスに近いという地の利を生かして時計工房やストラップメーカーなども存在している。いうなれば、スイス時計産業の衛星都市として発展したエリアといえるだろう。

このブザンソンとスイス時計産業の中心都市ラ・ショー・ド・フォンの間に、「シャルクモン」という小さな街がある。ここで生まれた時計ブランドこそが、「ミッシェル・エルブラン」である。(第2回へ続く)
MICHEL HERBELIN MHJ
プロフィール

篠田 哲生
時計ジャーナリスト
1975年千葉県出身。時計専門誌からファッション誌、経済誌やウェブサイト、広告などあらゆる媒体で時計記事を担当。毎年数回の海外取材を行い、工房取材の経験も豊富。時計学校を修了した実践派である。